――冬の陣・包囲の理――
夜明け前の空は、異様なほど静まり返っていた。
風がない。
鳥の声もない。
焚き火の爆ぜる音すら、どこか遠い。
城下を覆う闇は、ただの夜ではなかった。
押し黙るように、息を潜めている。
信長は城の高みから、その気配を見下ろしていた。
空気が重い。
だが、それは恐怖ではない。
湿った布をゆっくりと被せられていくような、逃げ場のない圧だった。
「……なるほどな」
誰に向けたわけでもない呟きが、夜に溶ける。
城の四方。
森。
丘。
街道。
すべてが、同時に整っていた。
兵の数は読めない。
だが、それは問題ではなかった。
——数ではない。
——陣形でもない。
——武威でもない。
意図だ。
意図だけが、完璧に揃えられている。
🌑
斥候は戻らなかった。
正確に言えば、「消えた」のではない。
討たれた痕跡も、捕らえられた気配もない。
ただ、戻る理由を失ったように、戻らなかった。
道は塞がれていない。
だが、進むたびに、同じ場所へ戻される。
森に入れば、森が続く。
丘を越えれば、丘が重なる。
城下へ向かえば、城下が遠ざかる。
「閉じている……いや」
信長は目を細めた。
「切り離している、か」
ここで、ようやく理解した。
この包囲は、城を落とすためのものではない。
兵を殲滅するためのものでもない。
——信長という存在を、歴史から切り取るための準備。
勝っても負けても、意味は同じ。
討たれたとしても、逃げ延びたとしても。
「信長はここで終わった」
そう語れる状況を、先に作っている。
🌒
「随分と手が込んでいる」
信長は、どこか楽しげに笑った。
恐怖はなかった。
怒りもなかった。
あるのは、納得だけだ。
自分が積み上げてきたもの。
壊してきた秩序。
踏み越えてきた理。
それらすべてが、今ここで試されている。
「逃げろ、という話じゃないな」
この包囲は、選択肢を奪っていない。
ただ、意味を固定している。
ここに留まれば、消える。
ここを出れば、やはり消える。
ならば。
信長は、静かに背を伸ばした。
「……世界が俺を試すというなら」
視線は、闇の奥。
まだ姿を見せぬ“何か”へ向けられる。
「俺も、世界を試してやろう」
🔥
城内に、不思議な静けさが広がっていた。
兵たちは気づいている。
だが、騒がない。
恐怖ではなく、覚悟の空気が満ちている。
信長は、ゆっくりと歩き出した。
退路へ向かうでもなく、戦場へ向かうでもない。
ただ、中央へ。
「ここから先だ」
誰に命じるでもなく、言い切る。
「巻き込まれたくない者は、ここで止まれ」
誰も動かなかった。
秀吉だけが、一歩だけ前に出る。
「……殿」
「分かっているだろ」
信長は振り返らない。
「これは戦じゃない。
だが、逃げ場もない」
秀吉は、それ以上何も言わなかった。
🌫️
霧が、いつの間にか立ち込めていた。
白ではない。
黒でもない。
時間そのものが曖昧になる霧。
歩いた距離が、意味を失う。
戻ったはずの場所が、初めてに変わる。
兵の声が、遠くで二重に響く。
足音が、半拍遅れて返ってくる。
信長は立ち止まり、霧の中で呟いた。
「……来るか」
その声に、応えるものはない。
だが、確かに感じる。
——見られている。
——測られている。
——選別されている。
これは討伐ではない。
これは封鎖でもない。
消すための包囲。
終わらせるための舞台。
信長は、霧の奥へ一歩踏み出した。
❄️
冬の陣は、まだ始まっていない。
だが。
信長は、すでにその中にいた。
⏳ 次回予告
次話、第41話――
霧は形を持ち、
幻は意思を持つ。
幻惑、開幕。
🔮 クロノスの囁き(短縮版)
時は、まだ止まっていない。
ただ――
ずれ始めている。
冬の陣は、
刃ではなく
迷いから始まる。