「揺らぎを読む者」
冬の陣は、まだ始まっていない。
少なくとも、誰の目にも“戦”とは映らなかった。
尾張の空は低く、雲は重く垂れ込めている。雪は降らない。だが、降らないこと自体が不穏だった。季節は冬であるはずなのに、寒さの芯がどこにも見当たらない。それが最初の違和感だった。
城内は静まり返っている。兵は配置につき、将は持ち場を離れない。命令は正確に伝わり、報告も滞りなく上がっていた。
それでも、どこかが噛み合っていない。
「……遅いな」
誰かが呟いた。だが、その“遅さ”が何を指すのか、本人にも分からない。
敵が来ないわけではない。来ていないだけだ。攻める気配も、退く兆しもない。ただ、同じ距離で、同じ形のまま、時間だけが流れている。
この状態は、本来なら有利であるはずだった。守る側にとって、動かぬ敵ほど扱いやすいものはない。
にもかかわらず、城内の空気はじわじわと削られていった。
一、報告のズレ
官兵衛は、提出された書付を静かに並べていた。内容に問題はない。どれも正しく、理に適っている。
だが、並べると分かる。
距離が少しずつ違う。時刻の感覚が合わない。敵の数を問えば、答えが揃わない。
どれも致命的ではない。だが、積み重なると判断を鈍らせる。
官兵衛は、あえて何も言わなかった。今ここで「異常だ」と口にすれば、その言葉自体が混乱を増幅させると分かっていたからだ。
これは戦ではない。少なくとも、まだ。
二、姿を見せぬ者
秀吉は、いない。
不在というより、表に出てこない。その事実が、かえって圧になっていた。
彼が動けば、皆が動く。彼が笑えば、空気が緩む。彼が怒れば、全てが締まる。
だが、今日はそのどれもがない。
「……何も起きていない、はずなのだがな」
将の一人が言い、誰も否定しなかった。否定できなかった、が正しい。
三、竹中半兵衛
竹中半兵衛は、奥の間に座していた。地図の前ではない。戦議の中心にもいない。
ただ、少し離れた位置で、全体を見ている。
彼は筆を取らない。書付も作らない。命令も出さない。
それでも、視線だけは常に盤面にあった。
「半兵衛」
呼ばれて、彼は顔を上げた。穏やかな表情で、何の緊張も見せていない。
「……何か、見えるか」
一拍の間。半兵衛は言葉を選び、静かに答えた。
「動いたのは、兵ではありません」
場の空気が止まる。
「揺れたのは、“考え方”です」
それだけ言って、彼は再び視線を落とした。
四、幻惑の正体
誰かが問おうとした。だが、半兵衛はそれを制した。
「名を与える必要はありません」
名を与えれば、理解したつもりになる。理解したつもりになれば、対処した気になる。
今は、それが最も危険だった。
「これは、心に触れる幻ではない」
半兵衛の声は低く、淡々としている。
「理に触れ、判断を歪めるものです」
天草四郎の幻惑は、心に直接届く。信仰や感情を揺さぶり、選択を変えさせる。
だが、今回のそれは違う。
考えている“過程”そのものを、少しずつずらす。
正しい結論に辿り着けなくするのではない。辿り着くまでに、時間を奪う。
「……厄介だな」
官兵衛が呟き、半兵衛はわずかに頷いた。
五、強い者から崩れる理由
「この陣で、最初に削られるのは誰だと思いますか」
半兵衛は問いを投げた。
「力のある者です」
判断が早い者ほど、ズレに気づきにくい。経験がある者ほど、自分の感覚を疑わない。
だからこそ、迷いが生まれた瞬間に、修正が遅れる。
弱い者は、元から迷う。
だが、強い者は迷い慣れていない。
「冬の陣は、そういう戦です」
誰も反論しなかった。
六、動かぬという選択
結論は一つだった。
動かない。
これは防御ではない。攻撃でもない。耐久戦でもない。
読む戦だ。
半兵衛は初めて筆を取り、命令ではなく、たった一言を書いた。
――待つ。
七、時の気配
動いていないように見える陣の中で、時だけが確実に進んでいる。
そのことに気づく者は、まだ少ない。
だが、気づいた者から、次の一手は始まる。
🔮 クロノスの導き
揺らぎとは、迷いではない。
人が「正しい」と信じた理が、ほんの一度、別の角度を向いた瞬間に生まれる。
冬の陣で試されるのは、剣ではなく、信念である。
⏳時間予告
次に時が動くのは、
誰かが「確認」を恐れず口にしたとき。
動いた者から、
冬の陣の選別が始まる。
第48話へ続く。