まだ夜の名残りが海辺の村を包んでいた。
空と海の境目はぼんやりと滲み、朝とも夜ともつかない灰色の世界が広がっている。
その、境目の色に似た瞳をした少女がひとり。
礼拝堂の小さな椅子に腰を下ろし、胸に手を当ててじっと目を閉じていた。
――天草四郎。
細い肩が、かすかに震えている。
寒さのせいではない。胸の奥で、誰かの心臓とは別の何かが、ゆっくりと、だが確かに脈を打ち始めていた。
(また……だ)
四郎は小さく息を吐いた。
痛いわけではない。
熱いとも違う。
ただ、胸の中心に埋め込まれた見えない石が、じわりと光を帯びてひそやかに鳴り出す感覚。
それをどう表現していいのか、四郎自身にも分からない。
「神さまの……お返事、なのかな」
自分でもよく分からないまま、そんな言葉が唇から零れた。
答える者はいない。礼拝堂には朝の冷気と、誰かが昨夜灯した蝋燭の残り香だけが漂っている。
四郎はそっと立ち上がり、小さな窓から海を見た。
遠く、水平線の向こう。
そこから“見えない波”が押し寄せているのを、彼女の感覚だけが知っていた。
それは潮風でも、寒気でもない。
世界そのものの“理(ことわり)”が、ほんの少しだけ震えている波。
(こわくは……ない。
でも――)
胸の奥で、またひとつ、トンと光が鳴った。
四郎はそっと胸元を押さえた。
「……もうすぐ、なんだね」
自分でも、何が“もうすぐ”なのか分からない。
だが唇から漏れたその言葉は、朝焼けの手前でふわりとほどけて、薄い光の粒になって消えていった。
やがて彼女は礼拝堂の扉を開け、まだ青い空の下へと歩き出した。
🌿三河 ― 風の匂いの違い
一方そのころ。
三河の国では、松平元康が城の天守から空を仰いでいた。
冬の朝らしい張りつめた冷気。
吐く息は白く、それ自体はいつもと変わらない。
だが――
「……風向きが、おかしいな」
元康は手すりに手を置き、目を細めた。
旗は静かにたなびいている。
雲の流れもいつも通りだ。
けれど、肌に触れる風の“匂い”だけが違っていた。
遠くの、もっと遠くの――海の向こうで、何かが目を覚まそうとしている。
そんな気配が、ほんの細い糸のように三河へまで伸びてきている。
「元康、ここにいたんだね」
背後から声がかかる。
振り向けば、旅支度に近い軽装の環が立っていた。
いつもと同じ、柔らかな笑み。
けれど、その瞳の奥にもまた、微かなざわめきが宿っている。
「環、お前も感じるか?」
「うん。風がね、いつもより“光っぽい匂い”してる」
環は空を見上げ、指でその空気を摘むような仕草をした。
「誰かが……遠くで、祈ってる感じ。
迷ってる祈りじゃなくて、生まれかけの祈り」
「生まれかけ……?」
元康は首をかしげる。
環は小さく頷いた。
「まだ名前も、形もない。
でも、世界がその子のために場所を空け始めてる。そんな感じ」
その言葉に、元康の背筋がほんの少しだけ粟立った。
(世界が、場所を空ける……)
それは、ただの“祈り”というには大きすぎる。
一人の人間の願いが、世界側から迎え入れられ始めた時に起こる現象だ。
環が、ふと元康の横に並ぶ。
「たぶんね。
三日か四日くらいのうちに、“何か”が起きるよ」
「そんなに早いのか?」
「うん。そのくらいの速さの揺れ方をしてる」
環の言葉はいつも通り穏やかだが、その内容だけは重い。
「理(ことわり)の層が、少しだけ軋んでる。
たぶん――“光”が、羽化する準備をしてる」
「光、か……」
元康は空を見上げた。
冬の光は冷たく、まだ優しさよりも鋭さが勝っている。
🌊海の村 ― 四郎の一日
その頃、四郎は村の井戸端で水を汲んでいた。
桶を引き上げるたび、水面に白い光がちらりと揺れる。
(……また、だ)
視線を逸らしても、瞼の裏に光の残像が残る。
それは蝋燭の火とも、朝日の反射とも違う。
胸の内側から、外へ漏れ出した光が、外の世界と重なって見えている。
「四郎ちゃん、どうかした?」
通りがかった女性が声をかけてくる。
「顔色、ちょっと悪いよ」
「あ、大丈夫です」
四郎は笑顔を作る。
嘘はつきたくない。
でも、真実を説明できる言葉を持たない。
だからいつも通り、
「大丈夫」としか答えられないのだ。
水を配り終え、丘の上へと登る。
海が一望できる、小さな草地。
そこに腰を下ろし、四郎は胸に触れた。
トン……
また、内側から鼓動が聞こえた。
(これが、何なのか――知りたい)
怖さより、知りたい想いの方が強い。
それは四郎が、生まれつき持ってしまった“気質”でもあった。
見えない誰かの悲しみを放っておけない。
見えない誰かの祈りを聞き逃したくない。
それがいつしか、
**「見えない何かに、呼ばれやすい魂」**になってしまった。
今日もまた、そんな魂が、世界の理のどこかに触れてしまったのだろう。
🌌時の狭間に響く声
ぼんやりと海を眺めていると、不意に空気が澄んだ。
風が止み、波の音が遠のく。
世界の音が一枚、薄い膜の向こう側へ退いていくような感覚。
四郎は息を止めた。
その瞬間――胸の光が、一段と強く鳴った。
そして、聞こえた。
声とも、音ともつかない、低く長い響き。
『……まだ、急くな』
何かが言った。
四郎だけに聞こえる、誰かのことば。
『理(ことわり)は、まだお前の器に馴染んでおらぬ。
焦れば、器が割れる』
「……誰?」
四郎は思わず問い返す。
返事はない。
けれど、光の脈動が少しだけ柔らかくなる。
まるで「聞いている」とだけ伝えてくるように。
彼女は目を閉じた。
(……急がなくて、いいんだ)
そう思った途端、胸の奥の痛みにも似た張りつめが少しだけほどけた気がした。
同時に、ひとつだけ確信が生まれる。
(これは、きっと“悪いもの”じゃない)
それは、世界を壊すための力ではない。
誰かを呪うための光でもない。
もっと、静かで、優しくて、
けれど揺るがぬ“何か”だ。
(だったら――)
「……ちゃんと、受け止めたいな」
四郎は胸を抱きしめるように両腕を回した。
その仕草は、まだ見ぬ“自分の未来”をそっと抱きしめているようでもあった。
🌲三河 ― 出立前の小さな会話
同じ頃。
三河では、出立の準備が着々と進んでいた。
今回は重い鎧も大軍も必要としない。
見回りだ。
理の揺らぎを確かめるための、静かな旅。
元康は馬の鞍を整えながら、隣で手綱を持つ環にちらりと目を向けた。
「環。
本当に“行くべき時”なんだな?」
「うん。今を逃すと、きっと“手紙だけ読むみたいな出会い方”になっちゃう」
「手紙……?」
「本人には会えないまま、噂や形跡だけを追いかけることになるってこと」
環は笑う。
「どうせ会うなら、ちゃんと“生きてる気配”に触れてあげたいから」
その言葉に、元康はふっと息を漏らして笑った。
「らしいな。
お前はいつも、そうやって余計なものまで抱え込む」
「ふふ。でも、それが私だから」
環は馬のたてがみを撫で、空を見上げた。
(天草四郎――
あなたが**“光の名前”**をもらう前に。
ちゃんと、世界があなたを受け止められるようにしておきたい)
まだ見ぬ少女に向けて、心の中でそっと呟く。
それは祈りであり、約束でもあった。
🌙夕暮れ ― 世界は静かに準備を始める
夕刻、四郎は礼拝堂へ戻る途中で立ち止まった。
空が紫色に染まり、最初の星が瞬き始めている。
胸の奥の光は、朝よりも静かになっていた。
(さっきの声のせいかな……
……“焦るな”って、言ってた)
四郎は自分の足元を見る。
土の上に、自分の影が落ちている。
その影の胸のあたりが、ほんのりと白くかすんで見えた。
目をこすると、普通の影に戻る。
「……不思議」
けれど、もう怖くはなかった。
四郎は礼拝堂の鐘の紐にそっと触れ、軽く一度だけ鳴らした。
カラン――ン
細い音は村の空へ溶けていき、やがてどこか遠い場所へ届いていく。
その音を、三河の空も、山の向こうの国も、まだ言葉にならない形で受け取っていた。
世界は、静かに準備を始めていたのだ。
ひとりの少女が“光”へ昇る、その瞬間を迎えるために。
🔮クロノスの導き
「胎動は囁きであり、宣言ではない。
光はまだ名を持たぬ。
だが――世界はすでに、その居場所を空け始めている。
急く必要はない。
理(ことわり)は、遅くも早くもなく、
ただ“ちょうどいい刻”に、扉を開く。」
✨次回予告
第22話 『波間に映る光 ― 理の揺らぎ、二度目の鼓動』
三河から武田へ。
環と元康が最初に訪れる地で、
“目には映らぬはずの光”が、はっきりと形を持ち始める。
遠く離れた海辺では、天草四郎の胸の鼓動がもう一度だけ強く鳴り、
世界の理の表面に、**初めて“ひび”が走る――。