武田領へつづく山道は、冬の気配をぎゅっと濃縮したような空気に包まれていた。
白い息がすぐにほどけて消えていく。木々は葉を落とし終え、細い枝先だけが空の寒さをなぞっている。
その道を、二騎の馬がゆっくりと進んでいた。
先を行くのは、軽装の甲冑に身を包んだ松平元康。
そのすぐ横に並ぶのは、束ねた髪を揺らしながら手綱を握る環だった。
「……風の味が、変わってきたね」
環がぽつりとつぶやく。
元康は鼻先に当たる空気を、あえて深く吸い込んだ。
「たしかに、三河の風とは違う。
武田の山風はいつも荒々しいが……今日は、荒さより“重さ”を感じるな」
「うん。“何か”が乗ってる。
まだ名前もない、小さい光の粒みたいなのが、風に混ざってる感じ」
環はそう言いながら、右手をそっと風の流れへ差し出した。
指先の周りだけ、ほんの少し空気の密度が違う。
(二度目の鼓動が、近い……)
胸の奥で、昨夜感じた“名もなき光”のざわめきが、また顔を出していた。
🌬️山あいの村 ― 逆さまの風
峠を越えた先に、こぢんまりとした武田の村があった。
雪こそまだ降っていないが、家々の屋根には霜が白くこびりついている。
二人の姿を見つけた村人たちが、慌てて道の両側へと身を引いた。
その中から一人、年配の女が前へ進み出る。
「遠路を……ようこそおいでくださいました」
女は深々と頭を下げた。
「こちらが、この村のまとめ役だと聞いた」
元康が馬から降り、視線を合わせる。
「風の異変が続いている、と」
「はい……ここ数日、どうにもおかしゅうございまして」
女は村外れの林を指し示した。
「焚き火の煙が、上ではなく“斜め下”へ流れたり、
落ち葉が、地面からふわりと浮かび上がったり……
それに、わけもなく胸がざわざわすると言う者も増えました」
環が小さく瞬きをした。
「胸が、ですか?」
「ええ。まるで、知らぬ誰かが泣いている声が、
この胸の奥に響いているような……そんな不思議な感覚だと」
環と元康は、互いに顔を見合わせる。
(やっぱり……ここまで届いてる)
環の胸の奥で、光の粒子がかすかに震えた。
「村外れに“風の祠”がございます。
あのあたりから、いちばん強く“おかしな風”が吹いているようで……」
「案内を頼めるか?」
元康が静かに問う。
「もちろんでございます」
女は、二人を祠の方角へと導いた。
🍂風の祠 ― 落ち葉が空へ落ちる
村外れに、小さな石の祠がぽつりと立っていた。
周りには、背の低い木々が輪を描くように生えている。
足元には、茶色く乾いた落ち葉がびっしりと積もっていた。
「何の変哲もないように見えるが……」
元康がそう言いかけたときだった。
ふいに、一枚の落ち葉がふわりと舞い上がった。
それは風に吹き上げられたのではない。
地面から離れて、**そのまま空へ向かって“落ちていった”**のだ。
「……落ち葉が“上に落ちた”?」
元康が目を見開く。
環は、一歩前へ出て膝を折った。
掌に一枚の葉をのせ、ゆっくりと手をひっくり返す。
本来なら、葉は地面へ落ちる。
だが――
「……やっぱり」
葉は、一瞬だけ宙に浮かび、そのまま上空へと吸い込まれていった。
「理(ことわり)の“落ちる方向”が、ねじれてる」
「ねじれておる……?」
「うん。“下”にあるはずの場所が、上の方へずれてる感じ。
世界が、誰かのために少しだけ“位置を空けようとしてる”んだと思う」
環は、祠の前に手を合わせた。
この場所に宿っているのは、武田が守ってきた“風の理”だ。
その風自体が、どこか落ち着かなさそうにざわついている。
(ごめんね。
でも、これはきっと悪いことじゃない。
あなたたちの領分を少しだけ借りるよ――)
心の中でそうつぶやき、環はそっと目を閉じた。
🌊遠い海辺 ― ふたたび鳴る鼓動
同じ刻。
遠く離れた海辺の村。
小さな礼拝堂の隅で、ひとりの少女が膝を抱えて座っていた。
薄い衣の胸元を、ぎゅっと握りしめている。
「……また、始まった」
胸の奥で、**トン……トン……**と小さな鼓動が鳴っていた。
自分の心臓とは少し違うリズム。
痛くはない。
けれど、じんわりと熱が広がる。
世界のどこかから、見えない糸が自分の中へ刺さり、
そこから光が少しずつ染み込んでくるような。
(こわい……でも、さみしくはない)
少女は、礼拝堂の細い窓から空を見上げた。
雲の隙間に、うっすらと紫が滲んでいるように見えた。
その色は、今までも何度か夢の中で見た色とよく似ていた。
(あの紫は、呼んでる色だ……)
言葉にはならない。
だが、確かに何かが「こちらへ」と囁いている。
その声を、少女はまだ知らない。
けれど、胸の中の鼓動だけははっきりと答えていた。
トン……トン……
(ちゃんと、聞こえてるよ……)
誰に向けた言葉かも分からないまま、
少女はそっと目を閉じた。
🌫️武田の森 ― 名もなき光の糸
武田の祠の前では、風が急に止んでいた。
木々のざわめきも消え、世界が一瞬だけ息を潜めたような静寂。
「……来る」
環が小さくつぶやいた。
元康が隣に立ち、無意識に刀の柄へ触れる。
その瞬間――祠の上空から、一本の細い“光の糸”がすっと垂れてきた。
どこからともなく降り注いだそれは、
見上げれば空のはるか高みから伸びているようにも見えるし、
もっと遠い“別の場所”から伸ばされているようにも見えた。
光の糸は、環の目の前でふわりと揺れ、
次の瞬間、細かい粒子へとほどけて消えた。
「今のは……」
「“名もなき光”の手紙、かな」
環は、ほどけた光の余韻が残る空間へ、そっと指を伸ばした。
「まだ顔も名前も分からないけど……
世界のどこかにいる“誰か”が、
ここまで手を伸ばしてきたんだよ」
「その“誰か”が……
お前の言う、冬の陣に関わる存在か?」
「うん。
そして、もっと遠い未来では、
“神”と“天使”の間をつなぐ存在になるんだと思う」
環の声には確信があった。
元康は、その横顔を見つめる。
「理の行く末まで見えているような目をするな、お前は」
「全部は見えないよ。
ただ……ほんの少し、未来の輪郭だけ」
環は笑った。
「でも、今この瞬間だけは分かる。
さっきの光は、“ひとりぼっち”の光じゃなかった。
ちゃんと、誰かに抱きしめてもらいたがってる光だった」
元康は、静かに頷いた。
「ならば、放ってはおけぬな」
🤝三成からの文 ― 友情の理
調査を終え、村で一息ついているときだった。
元康のもとへ、一通の文が届けられた。
「三成からだな」
封を切り、さらりと目を通す。
そこには、近江の空気の変化や、
城下の人々が感じている“説明のつかない不安”について書かれていた。
『最近、胸の奥がざわつくことが増えました。
夢も見てはおりませんのに、
まだ見ぬ誰かが泣いているような感覚が消えません。
元康様のもとでも、何か起きておられますか。
もしそちらで風が乱れているなら、
それはきっと、同じ“揺らぎ”の一部なのでしょう。』
元康は、文面を環へ見せた。
「三成も、感じているらしい」
「やっぱり……
あの子も、後でこの光と深く関わるから」
環は、文を見つめながら静かに言った。
「今はまだ、“ただの胸騒ぎ”でいいんだよ。
武器も、資格も、夢も、まだいらない。
今は元康との“縁”だけ深めておいて」
「……そういうものか?」
「うん。
“未来で同じ理を背負う子たち”ってね、
早くから全部を知るより、
いちばん最初に“誰と並んでいたか”の方が大事なんだ」
元康は、その言葉をゆっくり飲み込んだ。
「そうか。
ならば、今の三成には“友”として答えればよいのだな」
「うん。
それが、いちばんの前提になるから」
環は微笑んだ。
❄️上杉へ向かう決意 ― 三度目の鼓動の予感
武田の村を後にし、再び山道へ出る。
風はさっきまでの重さを少しだけ減らし、
代わりに冷たさを増していた。
「次は、上杉だな」
「うん。
風が落ち着いたってことは、“二度目の鼓動”はここで終わり。
次は、氷の理が揺れる番だね」
環は、遠く北の空を見つめた。
(次の場所で――
あの“名もなき光”は、もう少しだけ輪郭を持つ)
胸の奥で、小さく、しかしはっきりと予感が鳴いた。
🔮クロノスの導き
「二度目の鼓動は、風を通して世界に触れる。
まだ名を持たぬ光は、
ただ“ここにいる”と告げただけ。
だが、その囁きに応じた魂が、
すでに三つ。
一つは海辺の少女。
一つは三河の元康。
一つは、遠くで文をしたためる三成。
理の糸は、静かに束ねられ始めている。」
✨次回予告(第二十三話)
❄️第二十三話 上杉の雪に映る影 — 三度目の光の輪郭🌟
上杉の地に足を踏み入れた環と元康は、
“止まった雪”という異様な光景を目にする。
降り続けるはずの雪が空中で止まり、
時間さえも薄く凍ったような世界。
そこへ、名もなき光の三度目の鼓動が走り、
初めて“ほんのわずかな輪郭”が姿を見せる。
それは、のちに“光天使”として理を守る存在の、
まだ幼く、あまりに儚い影だった――。