🌙序:静かな夜、世界の底がふるえる
冬の陣を控えた三河の夜は、ひどく静かだった。
けれどその静けさの奥で、世界の底がふるえているのを、環だけははっきりと感じていた。
(……揺れてる。
昨日より、ずっとはっきりと。)
昨夜、名乗らずに現れた“光の少女”。
あれはただの影で、本体ではなかった――環の直感がそう告げている。
「環、また理がさわいでおるのか?」
元康が外套を羽織り、夜気の中へ出てくる。
環は短くうなずいた。
「うん。
昨日は“影”だけだったけど……
今日は“本人”が来る。」
少し遅れて三成も姿を見せる。
「胸が……妙に落ち着かない。
夢は見ていないのに、何かに呼ばれているような……」
「それは理が動き出してる証拠だよ。」
環は二人と並んで夜空を見上げた。
その瞬間――
世界から“音”が消えた。
風の音も、木々のざわめきも、人の息遣いすら遠のき、
ただ“無音”だけが支配する。
そして。
光が、降りてきた。
🌟一:一本の光と「天草四郎」の名
空を突き刺すように、一筋の光柱が地上へ伸びる。
昨日と違うのは、その光に迷いがないことだった。
光の中心に、ひとりの少女がゆっくりと降りてくる。
白銀の髪。
澄んだ瞳。
現代の空気も、どこか神域の匂いもまとった存在。
環は小さく息を呑む。
(三次元に“固定”されてる……
昨日は影。今日は――完全にここにいる。)
少女は地面にふわりと降り立ち、環たちに向き直る。
「昨日は失礼しました。
あのときの私は、まだ“影”でした。」
その声音は静かで、どこか幼さすら残しているのに、
響きだけは理そのもののように澄んでいた。
三成が思わず一歩前に出る。
「き、君は……誰なんだ?」
少女は一拍置いて、はっきりと言った。
「私は――天草四郎。」
その名はまだ、短い。
けれど、空気を震わせるには充分だった。
元康が目を細める。
「天草……。聞いたことのない家名よな。」
環は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
(天草四郎……。
でも、それだけじゃない。
この子は――もっと“先”の名前を持っている。)
しかし少女はそれ以上名乗らず、静かに続けた。
「私はいま、“昇る前”の姿です。
ここから先で、本当の名を名乗ります。」
🔥二:理の震動と、聖剣の共鳴
少女――天草四郎の足元から、淡い光が円形に広がっていく。
それは地面を照らしているのではない。
理そのものの層が、明るくなっていく。
環の聖剣が、柄の奥でカチリと音を立てた。
「……共鳴してる。」
環は腰の剣にそっと手を添える。
元康が横目で見る。
「環の剣が反応するということは――
あの子は“ただ者”ではないということよな。」
聖剣は封印級の理、大きな転換点にしか反応しない。
つまり、いまここで起きていることは――
“神昇格”。
天草四郎は目を閉じ、光の中心に身を任せる。
「私は、これまで“観測者”として在りました。
ただ見るだけ。
触れずに、記録だけをする存在。」
光が強くなり、足が地から離れていく。
彼女の身体がふわりと宙へ浮かび、その周りに羽根のような光が舞う。
「ですが――この世界の理は、今、欠けています。」
薄く目を開き、環をまっすぐ見つめる。
「環さん。
あなたの剣は“束ねる剣”。
けれど、今の世界には“支える柱”が足りない。」
環の胸がズキリと痛む。
(天使不足によるパラドクス制御失敗……
未来で私が抱えるはずの傷を、この子はもう分かってる。)
天草四郎は静かに続ける。
「このままでは、あなたの剣は世界に負荷をかけてしまう。
理を守りたくて振るった剣が、
理を壊してしまうこともある。」
環は拳を握る。
(……嫌だ。そんな未来は。)
光がさらに強くなり、夜空に届くほどの柱になる。
天草四郎の輪郭が、少しずつ“人”を離れていった。
🌌三:昇格の瞬間――「時貞」という名
光柱の頂点から、
“時”のような粒子が流れ落ちてくる。
それは砂時計をひっくり返したときのように、
上から下へ、延々と零れ続ける。
(時間……?)
三成が小さく呟く。
「そう。これは“時間”の理。」
天草四郎の声が、光の中心から響く。
「私は、ただの天草四郎では届かない場所へ行きます。
過去と未来をつなぐ、“時”の橋渡しになるために。」
光が一瞬だけ凝縮し、
彼女の胸元で“ある文字”が刻まれた。
――時。
「この瞬間をもって、私は私自身に“名”を与えます。」
静かに、しかしはっきりと宣言する。
「天草四郎時貞(あまくさ しろう ときさだ)。
時に貞(まこと)を立て、この世界の理を見届ける者。」
その言葉が放たれた瞬間、
光柱が一気に爆ぜた。
元康は思わず目を覆い、
三成は膝をつきかける。
環だけが、真正面からその光を見つめていた。
(やっぱり。
この子は“時間”と“記録”の神格。
私たちの物語を、時を超えて守る存在。)
🌠四:天草四郎時貞、神格体としての降臨
光がゆっくりと収まり、
夜空に星が戻ってくる。
そこに立っていたのは、
もう“ただの少女”ではなかった。
淡い光をまとった衣。
瞳の奥で、いくつもの時代が重なって見えるような深さ。
それでも微笑みだけは、どこまでも優しい。
環がそっと近づく。
「……天草四郎時貞。」
今度は、名前を間違えずに呼ぶ。
彼女は安心したように頷いた。
「はい。
私はもう、“ただの観測者”ではありません。
あなたたちと同じ“こちら側”に立ちます。」
元康が肩の力を抜く。
「ならば、頼もしい味方が一人増えたということだな。」
三成は、少し頬を染めて視線を逸らす。
「急に“神”だの“時”だのと言われても……正直、まだ実感はないが……
元康殿の側に立つ者なら、私も信じよう。」
天草四郎時貞は、二人をまっすぐ見つめる。
「あなたたちの選択は、
いずれ“理の循環”を救う大きな鍵になります。」
その言葉の意味は、
まだ三人には重すぎた。
けれど、胸のどこかで何かがカチリとはまる感覚だけは、確かにあった。
🌑五:冬の陣へ ― 信長の影と包囲網
ふと、天草四郎時貞が視線を遠くの山々へ向けた。
「……来ます。」
環もつられて同じ方向を見る。
遠くの稜線の上に、黒い靄のようなものが立ち昇っていた。
「……あれは……?」
元康が眉をひそめる。
環は息を呑む。
(この質感……
これは、“信長自身”というより――
“信長包囲網”の理そのもの。)
黒い靄の中から、かすかな“声”が聞こえるような気がした。
――まだ終わっておらぬ。
――光が満ちれば、闇もまた動く。
天草四郎時貞が静かに言う。
「冬の陣は、ここから本格的に動きます。
信長を巡る包囲網、
秀吉の“霊の器”、
そしてあなたたちの選択。」
環は聖剣の柄を強く握る。
「ここから先は……もう“前夜”じゃないんだね。」
「はい。」
天草四郎時貞は微笑む。
「これは“開幕”です。」
冷たい風が吹き抜け、
三河の夜空に薄く雲が走る。
元康が短く号令をかけた。
「環、三成。
支度を整えよ。
冬の陣は――この天草四郎時貞の昇格をもって、始まりとする。」
三人と一柱の神格が並んで空を見上げる。
その光景を、誰も知らない空だけが静かに見ていた。
こうして――
天草四郎時貞・神昇格の儀は完了し、
冬の陣は、静かにその幕を上げた。
🔮クロノスの導き
理の欠片がひとつ満ち、
時間の流れに“証”が刻まれた。
天草四郎時貞、その名は記録と循環の神格。
束ねる剣は、まだ天使不足のまま震えている。
冬の陣は始まったばかり。
敗北と勝利、そのどちらでもない道を選ぶ覚悟が、
やがて関ヶ原と江戸の未来をつくるだろう。
⏳次回予告 第25話「武器の気配、目覚めの刻」
天草四郎時貞の昇格によって、
世界の理は一段階“開いた”。
その余波は、遠く離れた剣士たちにも届く。
まだ姿を見せない宮本武蔵。
静かに風を切る佐々木小次郎。
彼女たちの周囲で、“武器の理”が目を覚まし始める。
しかし、この段階ではまだ――誰も武器を手にしない。