三河の夜は、冬へ向かう手前の静けさを抱いていた。
風は冷たく、屋根瓦の隙間を撫でるたび、かすかな音を残していく。
その音は、眠りを誘うはずなのに――今夜だけは違った。
「……っ」
石田三成は、布団から跳ね起きた。
額に汗。呼吸が乱れ、胸が痛いほど強く脈を打つ。
指先が冷えているのに、身体の芯だけが熱い。
夢だった。
だが、夢のはずがない感覚が、喉の奥に刺さったまま抜けない。
夢の中で、三成は“旗”を見た。
一面の闇の中に立つ、一本の旗。
それは誰の旗でもない。誰の軍でもない。
ただ、理(ことわり)を嘲笑うように、ひらりと揺れていた。
次に見えたのは、崩れる陣。
規律あるはずの形が崩れ、味方と敵の境目が溶ける。
声が届かない。命令が届かない。
「正しいはずのもの」が、正しさを失っていく。
そして最後に――
“光に見えるもの”が、人を飲み込む。
そこまで見て、三成は息を止めた。
怖かったのは、死や敗北ではない。
自分の信じてきた“理”が、音もなく折れていくことだった。
(……こんな夢、誰に話せる)
三成は、膝を抱えて震えた。
人に弱さを見せるのが苦手だった。
けれど、今夜の夢は、弱さを見せるかどうか以前に――放置してはいけない種類のものだった。
(元康……)
松平元康。
三成が、数少ない「話せる」と思う相手。
軽口を叩きながらも、核心だけは外さない。
戦の空気も、人の空気も、同時に読める人。
三成は立ち上がった。
迷う時間はなかった。
今の自分に必要なのは、鎮める言葉ではない。
この“違和感”が何なのか――名前を与えてくれる誰かだった。
「……行く」
夜明け前。
三成は外套を掴み、髪を結び直した。
誰にも気づかれぬように屋敷を出る。
足音を殺して歩きながら、胸の奥の焦りが消えない。
それでも、三河へ向かう道は不思議と迷わなかった。
まるで、道そのものが三成を導いているようだった。
🌫️三河、静かな朝――そして「相談」
三河の門が見えた頃、空は薄く明るみ始めていた。
鳥の声が一つ、二つ。
世界が“いつもの朝”へ戻ろうとしている、その境目の時間。
三成は息を整え、門をくぐる。
元康の屋敷に着くころには、足が少し痛んでいた。
だが、躊躇はない。
「元康。起きているか」
控えめに声をかけると、すぐに返事が返ってきた。
「おう。……その顔、寝てねぇな」
元康は戸を開け、三成の顔を一目見るなり、空気を変えた。
冗談を言う余裕を残しつつも、目が真剣になっている。
「中に入れ。温かいもんを用意する。……何があった?」
三成は、首を横に振った。
「温かいものはいい。時間が……いや、違う。私が、焦っているだけだ」
「焦ってるって分かってるなら、なおさら座れ」
元康は三成の肩を軽く押し、座敷へ通した。
湯気の立つ茶が置かれる。
三成は手を伸ばし、湯呑みに触れた――熱が現実を引き戻す。
「……夢を見た」
三成がそう言うと、元康は頷いた。
「夢か。……どんな」
三成は言葉を選びながら、夢の断片を話した。
旗、崩れる陣、光に見えるもの、届かない声。
自分が信じる理が折れる感覚。
語れば語るほど、喉が乾く。
恐怖を言葉にするほど、恐怖が輪郭を持つ。
話し終えたとき、三成は湯呑みを握り締めていた。
「……笑うなら笑え。私は、夢で動くほど愚かではない。だが、あれは――ただの夢ではない気がする」
元康は笑わなかった。
湯呑みに口をつけ、静かに息を吐く。
「笑わねぇよ。……三成、お前は夢で動いてるんじゃねぇ。“違和感”で動いてる」
「違和感?」
「そうだ。夢はきっかけ。お前の中で、何かがズレた。だから怖ぇ。……怖いのは悪いことじゃねぇ」
三成は目を伏せた。
「私が怖がるなど……」
「怖がっていい。むしろ怖がれる奴は強い。怖さを無かったことにする奴は、いつか取り返しがつかなくなる」
その言葉が、不思議と三成の胸に刺さった。
優しさではない。慰めでもない。
現実を見据えた、元康の“筋”だった。
「……なら、どうする。私は何をすればいい」
元康は少し黙り、ふと視線を上げた。
「一つ聞く。夢の中で“誰か”の気配はあったか?」
三成は眉を寄せた。
そう言われて思い出す。
「……言葉はなかった。だが――見られていた。誰かに。ずっと」
元康は頷いた。
「その“誰か”が、今のお前の答えを持ってる可能性がある。……ただ、俺だけで追うのは無理だ」
「誰を呼ぶ」
元康は、迷いなく言った。
「環だ。束ねる剣。理を見て、魂を見て、それでも人を捨てない」
その名を聞いた瞬間、三成の背筋が少し伸びた。
環は、場を変える。
強い。だが、押しつけない強さ。
何より――“束ねる”という言葉が、今の三成には必要に思えた。
🖤🌙同じ夢――佐々木小次郎の一言
その時、廊下の奥で足音がした。
襖が少し開く。
「……話、聞こえた」
現れたのは、佐々木小次郎だった。
忍ぶように、しかし堂々と立つ。
寝起きとは思えない目の鋭さ。
三成は驚き、思わず立ち上がりかけた。
「佐々木……なぜここに」
小次郎は三成をまっすぐ見た。
そして、何気ない口調で――言った。
「私も、同じ夢を見た」
座敷の空気が、ひゅっと冷えた。
湯気が止まったわけではないのに、温度だけが下がる。
「同じ……だと?」
「旗。崩れる陣。届かない声。……光が、人を飲む」
小次郎が淡々と語るたび、三成の心臓が跳ねた。
夢の断片が一致している。
偶然では片づけられない一致。
元康が小さく笑った。
「ほらな。三成、これで確定だ。“ただの夢”じゃねぇ」
三成は唇を噛んだ。
怒りではない。
理解できないものに触れたときの、純粋な焦り。
「……何が起きている」
小次郎は、答えを出さない。
ただ、静かに言った。
「“見せられている”。そういう感じがした。私たちの意思とは別に」
元康が頷く。
「なら、なおさら環だ。……理を束ねられる奴じゃなきゃ、こういうのは扱えねぇ」
三成は、ゆっくりと座り直した。
今、ここで取り乱したら終わる。
自分が先に折れたら、理は本当に折れる。
「……分かった。環を呼べ」
🌸束ねる者――環、同行を決める
環が三河に着いたのは、朝日が屋根を照らし始めた頃だった。
外套の裾を揺らし、迷いなく現れる。
それだけで場の空気が整うのが、環という存在だった。
「呼んだのは、元康?」
「そうだ。……三成がな、夢を見た」
環は三成を見る。
三成は目を逸らさない。
逸らしたら、自分が負ける気がした。
「私が夢を見た。……そして佐々木も、同じ夢を見た」
環の目が細くなる。
驚きではなく、確認。
情報を束ねる者の眼。
「夢の内容を」
三成が説明すると、環は一度だけ深く息を吐いた。
「……クロノスの導きだね」
その一言で、三成の中の“名前のない恐怖”に、名前がついた。
名前がつくと、恐怖は少しだけ扱えるものになる。
「クロノス……」
環は頷き、静かに言葉を続ける。
「夢は警告。けれど、恐怖を煽るためじゃない。
“理の揺らぎ”が起きてる。だから、私たちは先に気づかされた」
小次郎が口を挟む。
「揺らぎの原因は何?」
環は首を振った。
「まだ分からない。だから、行く」
元康がニヤリと笑う。
「よし。話が早ぇ」
三成は思わず言った。
「どこへ」
環の答えは短い。
「夢が指している場所へ。……ただし、私たちが行くと“偶然”が起きる」
「偶然?」
環は淡く笑った。
「私たちは、偶然に巻き込まれるんじゃない。
偶然を“起こす側”になる」
三成は、その言葉の意味が分からないまま――なぜか頷いていた。
理屈より先に、身体が納得していた。
「……同行する」
元康はすぐに立ち上がる。
「準備しろ。今日は長くなる」
小次郎も無言で頷いた。
環は最後に三成へ視線を戻し、静かに言った。
「焦りは悪くない。けど、焦りで判断を誤ると“理”が折れる。
三成、今日は私が束ねる。あなたは、あなたの目で見て」
三成は、短く答えた。
「……分かった」
⚔️てんやわんやの始まり――宮本武蔵、登場
三河を出てしばらく。
道は順調だった。
だが、順調すぎる道ほど、何かが起きる前触れに見える。
環は道の途中で立ち止まった。
風が変わった瞬間だった。
「……来る」
元康が眉を上げる。
「何が」
小次郎が手を腰に添える。
「気配……いや、殺気じゃない。強い“意思”」
次の瞬間、草むらから、ずかずかと足音がした。
堂々と出てきたのは――宮本武蔵だった。
「おいおい、こんな朝っぱらから集団で散歩か?」
その軽口に、三成の眉が跳ねる。
「宮本……なぜここに」
武蔵は肩をすくめた。
「さぁな。歩いてたらここにいた。
……それより、お前ら。顔が硬ぇ」
元康が言い返す。
「お前が一番うるせぇ」
武蔵は笑い、ふと環を見る。
その瞬間、武蔵の表情がほんの少しだけ変わった。
「……束ねる奴か」
環は微笑む。
「あなたは、混乱を恐れない」
武蔵はニヤリとした。
「恐れないっつーか、混乱の方が面白ぇ」
三成は苛立ちを抑えつつも、どこか救われる感覚があった。
この場に“軽さ”が入った。
それは、恐怖を薄めるための軽さではなく――場を壊さないための軽さ。
環が武蔵に言う。
「偶然だね」
武蔵は笑って返す。
「偶然って便利な言葉だな」
元康が小声で三成に言った。
「な? 言ったろ。俺らが動くと“偶然”が起きる」
三成は、息を吐いた。
「……てんやわんやだな」
小次郎が小さく頷く。
「でも、これが正しい気がする」
環は、全員を見回し、短く告げた。
「行こう。夢は“始まり”を見せただけ。
本当の問いは、これから来る」
武蔵が笑う。
「よし。面倒ごとは嫌いじゃねぇ」
元康が前へ出る。
「じゃあ、出発だ。三成――今日は俺がついてる。安心しろ」
三成は、わずかに口元を緩めた。
安心なんて、簡単にできない。
だが、元康が「ついてる」と言うだけで、理が一本立つ気がした。
環が最後に、空を見上げる。
雲は薄い。
太陽はまだ優しい。
それでも、遠くの空だけが――少し暗い。
(クロノス……導きは、優しさじゃない。
でも、私たちを守るためにある)
環は小さく息を吐き、歩き出した。
三成は、その背中を見た。
束ねる者の背中。
そして――自分が折れずに進むための、道標。
🔮クロノスの囁き
理は、折れるためにあるのではない。
折れた理を拾い、束ね直す者がいる――それが“導き”だ。
⏳次回予告
夢の断片が、現実の地形と重なり始める。
そして一行は、**「光に見える闇」**の気配に触れる――。